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『マチネの終わりに』の感想とラストの続きを勝手に考えてみた

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k-hirano.com

平野啓一郎氏の人気恋愛小説『マチネの終わりに』を読んだ。
昨年にアメトーークでピースの又吉さんやオードリーの若林さんが紹介していたことで話題になった本だ。あまり恋愛小説は読まないのでスルーしていたのだが、本屋でひたすら陳列されているのを毎回見かけ、そろそろ読もうとようやく手にとったわけである。今回は個人的な感想と、ラストの続きを勝手に予想してみたいと思う。

『マチネの終わりに』を読んだ感想・書評

あらすじ

念の為、まず『マチネの終わりに』のあらすじを記載しておく。

物語は、クラシックギタリストの蒔野と、海外の通信社に勤務する洋子の出会いから始まります。初めて出会った時から、強く惹かれ合っていた二人。しかし、洋子には婚約者がいました。やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまいます。互いへの愛を断ち切れぬまま、別々の道を歩む二人の運命が再び交わる日はくるのかー

中心的なテーマは恋愛ではあるものの、様々なテーマが複雑に絡み合い、蒔野と洋子を取り巻く出来事と、答えのでない問いに、連載時の読者は翻弄されっぱなし。ずっと"「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説"を考えてきた平野啓一郎が贈る、「40代をどう生きるか?」を読者に問いかける作品です。

『マチネの終わりに』特設サイト|平野啓一郎

なぜこの小説は”美しい"と感じるのか

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この小説を読み終わった後、書評サイトを巡回し、いろいろな方の感想をのぞいてみた。その中では、一番多く書かれていたことが『大人の美しい恋愛』というキーワードだった。確かにこの小説は読んでいて終始”美しい”と感じた。でもそれはなぜなのだろうか。

この物語は、間違いなく「恋愛小説」というカテゴリに含まれる作品である。見知らぬ二人が出逢い、愛し合うようになる。恋愛というもの自体が美しさを与えるといえる。
しかし、ストーリーの中では、イラクでの事件、PTSD、《ヴェニスに死す》症候群、リーマンショックなど、凄惨な歴史や暗いテーマも多く盛り込まれている。
著者である平野氏も『マチネの終わりに』の特設サイトにて、読者へのメッセージの中で次のように述べている。

「小説の中心的なテーマは「恋愛」ですが、そこは僕の小説ですので、文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代の困難、父と娘、《ヴェニスに死す》症候群、リルケの詩、……といった、硬軟、大小様々なテーマが折り重なって、重層的な作りになっています」

『マチネの終わりに』特設サイト|平野啓一郎

さらに、主人公の二人は40代に入った男女である。10代20代の若者からすれば、中年のおじさんとおばさんの話と流されてもおかしくないような話のはずだ。しかし、そのようなテーマを盛り込んだ上でも、このストーリーには美しさを感じる。

その理由としていろいろ考えたけれど、それはストーリー自体とともに、それを装飾する美しいエッセンスが重層的に折り重なっているからではないかと思う。

中でもタイトルにある"マチネ"という言葉がある種、この小説の美しさの根本となっている。マチネとはフランス語で《昼公演の演奏会》という意味であり、フランスという場所設定とヨーロッパの時代を超えたクラシック音楽の二つが、このストーリー全体を飾っていることを表している。そして、時代に残る映画(架空のものも含む)、リルケの詩といった”芸術”という要素がさらに、物語を彩っている。さらに、主人公の蒔野と洋子の二人が外見でもスマートであり、内面的にも汚れのない純粋、純情な人間であることが、ストーリーの清純さを生み出しているのだろう。

さらに、著者が文章に散りばめたメタファーや芸術の引用が、美しさを助長している。この作品はそのようなエッセンスたちが重なり合うことで、総合的な芸術的美を生み出しているのだろう。

"大人の恋愛"とは何だろう

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この小説を語る上でキーとなるのが"大人の恋愛"というものだ。年齢がアラフォーの男女二人の恋愛を描いているのだから、もちろん大人の恋愛と言えるのだが、 そんな安直な意味ではないだろう。いろいろ考えた上で、"大人"というものが何かということを考えることが、それを導き出す最短ルートなのではないかと思った。

10代20代の恋愛は、「俺が俺が」「私が私が」という考え方に偏りがちだ。それは自分の思い通りに相手を動かしたい。自分の考える通りに相手にそうあってほしい。という自己中心的ともいえるかもしれない。しかしこの物語に登場する主人公の二人はイラクと日本、フランスと日本、ニューヨークと日本というように遠距離での恋愛を過ごしていくのだが、その中で常にお互いに相手のことを想い、おもんばかる。そして、相手の状況を鑑みながら、自分というとのを抑え続ける。それは言い換えれば"自己犠牲の伴う愛"といえるかもしれない。そういう思いやりがある恋愛こそ、"大人の恋愛"であり、年齢ということを越えて描かれているテーマなのではないかと思う。

なぜお互いの気持ちを伝え合うことができなくなるだろうか

大人の恋愛が相手を思いやり、自己犠牲を伴う愛という話をしたけど、このストーリーの中で蒔野と洋子にはそれだけでなく、大人になって増えていくシガラミの強さを感じた。

僕は彼らが別れることになってしまったのは、三谷早苗のせいではないと思っている。結局は相手に一歩踏み出すことをし合わなかった二人の責任だ。建前、良識という壁をつくってしまうことで自分で自分を動けなくしてしまっているんじゃないのかな。

それを行動力のなさという言葉で片付けてしまうことは安直すぎる気もするけれど、お互いを理解し合うことは自分だけの熟慮や思いやりだけではなんともできないところがある。相手の心のドアをノックしてその奥へ一歩踏み出し、本当の相手と対面することが、コミュニケーションであり、お互いを理解し合うためには必要な時があるのではないだろうか。そういう意味では、やはり一歩踏み出す勇気ないし行動力が、幾つになっても必要になるのだろう。相手への深い思慮は行動という一番大切なものを奪ってしまう危険性があることを僕たちは認識しないといけないんだ。

葉隠の言葉の中で「恋しなむ 後の煙でそれと知れ ついに明かさぬ 胸の思いは」という武士道精神を語った言葉がある。古来日本では男子たるもの胸中の苦悩や主張を軽々しく表に出すべきではないという考え方を是とし、それを在り方の”美”としていた。僕はその考え方がかっこいいと思うし、そんな武士の在り方が素敵だとも思う。自分には絶対できないから。

しかし、西洋文明がこれだけ浸透した昨今では、お互いの気持ちを素直に伝え合うことが、男女互いの理解を深めるには大切なのではないかと思う。特に江戸時代と比較し、情報が大量にあふれ、メール、ライン、ネットなどなどコミュニケーションツールも整備され、否が応でも人と人のつながりが強化されている世の中では、お互いの気持ちを正しく伝え合うことの必要性は逆に増していっている。

それに日本には”気遣い”という”和”の心が存在する。自分の意見を主張することに抵抗を感じ、場の空気を善かれ悪しかれ読んでしまう。だから、多少意識的に素直に伝えようとするくらいでちょうど良いのかもしれない。

平野氏が提唱する"分人思考”という人間観

平野氏は”分人”という人間観を以前から提唱されている。“分人”とはざっくり言えば、「個人といえども一つの性格で構成されているわけではなく、相手や状況に応じて、その性格や人間性は変わる。つまり、個人の中に複数の分人が存在している」という考え方だ。『ドーン』でもこの分人という考えが根本として描かれている。分人の考え方については、別著『私とは何か――「個人」から「分人」へ』を参考にされるのが良いだろう。

この作品においても、主人公の蒔野は状況に応じて複数の顔を見せている。仕事の関係者といるときには、ひょうきんでちゃらけた人。師といるときは真面目で音楽に情熱をかける人。そ自分一人で物事を考えるときは、繊細で少し冷めたところがある人。して、洋子といるときは優しく、思いやりにあふれた人。

これは我々実際の人間にも至極当然に見られる”使い分け"であるが、よくある小説ではこの個人の中にさまざまな人間性が盛り込まれているという描き方はあまりされることがないように思う。このキャラクターはこういう性格、というように人間というものを単純化し、ストーリーにわかりやすさを持たせる場合が多い。実際の人間の思考や対応をそのまま描くことで、リアル感と共感性を生み出す効果が副次的にあるのかもしれない。

ちなみに、分人という考えとはちょっと視点が異なるが、やはり人間はその状況によって、性格や人間性が変化するということも読んでいて思ったことだ。コッポラ監督の名作『ゴッドファーザー』の中で、正義感の強いマイケル=コルレオーネがドンのポジションについた後、人がガラッと豹変するように。また、司馬遼太郎の作品『峠』の中でも、主人公である河井継之助が「人をつくるのは立場だ」ということを言っている。”立場が人をつくる”。人は環境に依存する動物であり、その本質は古来から変わっていないのだろう。

三谷早苗という存在

ネットで書評をみていくと、三谷早苗へのバッシングが非常に多かった。
自分が惚れている蒔野を洋子に奪われることへの恐れと嫉妬から、二人の仲を裂く偽りのメールをつくり、さらに自分が蒔野と結婚し、不満のない生活を過ごす。そして、洋子と蒔野が再び出逢うことを阻止する。極めつけは、それだけ身勝手な横暴をしておいて、自己の罪悪感に耐えきれず、自分の罪を蒔野へ告白し、自分の罪悪感の重圧から逃れようとする。まぁたしかに短慮で最悪なやつというレッテルをつけるに値するキャラクターである。

でも、そんな三谷早苗を僕たちは本当にバッシングできるのだろうか。たしかに客観的にみても、早苗は明らかに短慮で身勝手である。短慮による自己中は他人を傷つける。そして、自分だけが幸せであればいいという考えが、まわりの人の混乱をもたらしてしまうことがある。だが、ある意味でいえば、それだけ三谷早苗は全力で蒔野という人間を愛したのだろう。それは片方向であり、相手を思いやる自己犠牲が伴う”大人の恋愛”とは決して言えない。だが、彼女は子供のように自分の欲に忠実であったと言える。なんのしがらみも考えず、ただただ自分の求めるものを得たいという考えが先行した結果、あのような偽メールという行動に出たのだろう。自分の欲に忠実な人は、熟慮の人間よりも圧倒的な行動力をみせることができることも事実だ。そしてそれが結果として、誠実な人よりも自己主張が強い人が目的のものを得る理由なのかもしれない。

三谷早苗ももともとは蒔野という人間の幸せを願った一人であり、その人生という映画において、”名脇役”でありたいと健気に思っていた人である。自分勝手に振る舞うことが良いというわけでは決してないけれど、恋愛にはいろいろな想い方があるんだということを改めて考えさせられた。

嘘メールのくだりは無理がある。けど、ドはまりする

三谷がやった嘘のメールは物語の最大の展開ポイントだが、正直結構無理があるように思う。昼ドラや月9的にはおもしろいけど、いろんな状況補填をつくって、勘違いする状況をつくりあげたことは若干強引な気がする。返信文がうまく勘違いを促進してしまった場面は、若干アンジャッシュのコントのように勘違いネタみたくなってしまう危険性があるように思った。

しかし、そこからぐっと惹きつけられ、物語が加速し、本から手が離せなくなってしまったことは事実である。だから、多少強引でもあの展開は大正解ということなのだろう。次の日が早かったので早く寝ようと思っていたのに、結局午前2時半までかけて読み終わるまで寝れなかった僕が証明している。

『マチネの終わりに』と『冷静と情熱のあいだ』の共通点と違い

冷静と情熱のあいだ―Blu (角川文庫)

この小説を読みながら、辻吉成氏と江國香織氏の共著『冷静と情熱のあいだ』を連想させた。二つの作品には多くの共通点がある。舞台は海外(フランスとイタリアの違いはあるけど)、ヒロインはハーフ、第三者の介入によって二人が別れる、男は真相を知らされていなかった、二人だけが大切に胸に秘めていることがある、ラストシーンが読者の想像に任されている。また、音楽とアートの違いはあれど、ともに芸術という分野を描き、芸術とヨーロッパの美しい情景とともに描かれている。

お互いに愛し合いながらも、勘違いと行き違いから生じた別れによって、二人が別々の道を歩む。そして、10年の時を経て、二人は運命的に再会を果たす。けれど、クライマックスでは別々の道を歩むことを決断し、再び別れようとするが、ラストシーンでは彼氏が彼女を追いかけ、ミラノへ向かうところまでが描かれている。映画化された作品では、駅で再会し、笑って彼女の方へ歩き始めるところで幕を閉じる。その後二人がどうなったかは想像に任されている。

しかし、『冷静と情熱のあいだ』の場合は、もう少し話がシンプルであることが大きくことなる点だ。なぜなら、二人の状況の複雑具合が異なる。『冷静と情熱のあいだ』では二人とも未婚だし、ラストは彼氏彼女もいないフリーである。子供がいるわけでもない。仕事が支障をきたすわけではない。つまり、想像するにしても、二人が再び恋人になるであろうことは単純に予想できる。それがどう展開されていくのかということは想像する楽しさがあるけれど。

それに対し、マチネはどう転ぶのかというおもしろさがある。二人の性格を考えるだけでは足りない。二人が話しているときのタイミングやまわりの環境によっても大きく話はかわってくる。そこまで鮮明にイメージしながら、本格的に考えていくと、いろんなパターンが生まれ、それが想像する作業として楽しみを与えてくれる。 

 

 

ラストのその後を勝手に予想してみた

マチネの終わりに

あのラストを読めば、否が応でも物語の「その後」が気になってしまう。そこから妄想が膨らんでいく。というわけで、ここからは独断と偏見で、『マチネの終わりに』の「続き」を考えていきたい。

二人の置かれた状況を確認

まずは、状況を整理しよう。蒔野と洋子は、ラストの時点で置かれている環境だけでなく、お互いに「知っていること」と「知らないこと」に差がある。恋愛には情報の非対称性は必然だし不可欠な要素でもあるが、ラストのその後を考えるにあたっては、彼らの認識を把握しておくべきだ。そこで、蒔野と洋子ごとに「(自分が)知っていること」「(自分が)知らないこと」「ラスト時点で置かれている状況」という3つの項目を洗い出してみた。次の表をご覧いただきたい。

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上記を見ると、洋子の方が蒔野よりも正確な情報を知っていることがわかる。逆に蒔野は知っていることでも、洋子が結婚していて子供がいる、という過去の情報をそのまま認識してしまっており、肝心な情報を得られていない。また、置かれた状況としても蒔野よりも洋子の方が独り身のため、ある意味動きやすい環境にあるといえるだろう。一方、蒔野は守りたい家族が存在し、本来は憎むべき相手である早苗も妻として既に愛し始めていることに気づいている。状況の複雑さでは蒔野の方が圧倒的に動きづらい状況だ。

このようなことからも、蒔野は洋子を愛し、もう一度話したいと思う一方で、家族も守らなければいけないという責任感との葛藤が生じるだろう。また、洋子の方では、蒔野のそのような状況を理解していることから、相手の想いを察し、かつての自分の父のように、愛しているからこそ身を引く決断にいたる可能性が強い。

しかし、そもそも婚約中に洋子に告白し、洋子も婚約を破棄してまで、蒔野と一緒になろうとしていたアグレッシブさ、というか強い"磁力"のようなものが二人には存在している。そう考えると、二人とも最初は相手をおもんばかり、自分の気持ちを抑えようとするかもしれないが、結局はその強力な”磁力”に負け、本能のままに相手への気持ちを素直に表す可能性が高い。
 

予想した続きのストーリー

では、あのラストシーン直後の情景を考えてみたい。※ここからは完全に僕の妄想の世界である。

まずは「久しぶりだね」という蒔野の言葉から始まり、最初は常識のある大人として、他愛もない話から始まる。そして、ベンチに腰掛け、手前の池を眺めながら、最大限に理性を装って二人は話を続けていくだろう。しかし、相手を気遣い、お互いに早苗が嘘をついていたことは言いたいが言えない。伝えたい想いと伝えられない自分に、心で歯がゆさを抱きながら、二人はお互いが何を知っていて、何を知らないのかを探り合いながら話を進めていく。

そうして話す中で、本当に少しずつ、あの日のお互いの誤解の話になる。そして、遠回りにその誤解を解いていこうとするだろう。偽りのメールによる二人のすれ違いにお互いに何とも言えない辛さを感じる。そして、その中で二人はお互いがまだ愛していることを言葉で言わずともわかりあっていく。

しかし、愛を確かめたいけれど、蒔野の状況が話に出る。今は守らなければいけない大切な家族がいる。そして、蒔野は自分はその家族を愛していることも告げざるを得ないかもしれない。それを伝えるとき、洋子は辛い気持ちをひた隠し、優しい微笑みをもって、頷いて受け入れる。

そして、蒔野の状況と考えをきいた上で、洋子も正直に今の状況を説明していくかもしれない。自分は既に離婚し、独り身になっていること。そして、やはり今でも蒔野を忘れられないでいること。それをこれまでにないくらい素直に伝える。だが、だからこそ、自分はあえて自ら身を引くことを蒔野へ伝える。それが一番お互いのためなのだ、と自分にも言い聞かせるかのように。それに対し、蒔野はなんとも言えないつらさを抱えながらも、生まれてきた子供のことも思い浮かべながら、「そうだね」と言う。そして、再会を祝いながら、二人は再び別れる…
そうして蒔野は帰国の途につこうとする。だが、空港へ向かう車の中で、独り身でニューヨークで生活する洋子を想う。そしてそんな立場の彼女を一人置いて自分は帰国できるのだろうかと。そして、途中でついに感情が理性に勝ち、結局は洋子のところへ向かう。ここで大切なのは連絡先を交換したかどうかだ。おそらくしていないだろう。だから、昔交換していたメールとスカイプで洋子に連絡する。そして再会した場所でもう一度会おうと伝える。偶然連絡に気づいた洋子も、感情を素直に表し、飛び出していく。
二人は再会し、もはや何も考えることなく抱擁を交わす。

その後はどう決まるのか

個人的にはやはり二人は結ばれてほしい。そこまでお互いを必要とし、理解し合える二人はそう見つからない。そんな大切な人としがらみによって離れてしまうことはつらいことだ。二人が本当に笑いあって暮らせる日が訪ればいいなとフィクションながら思った。

ここまで書いてみてなんだが、その後を決めるのは、もしかすると彼らがどうこうというよりもその瞬間の環境次第なのではないかと思った。早苗が偽りのメールを送ったという些細な環境変化だけで、二人の関係は大きく変わってしまった。それはどこか主観性に欠け、外的要因を言い訳として何かに流されているようにも感じるが、それは二人が外部環境やちょっとした言葉の流れだけで大きく気持ちを動かしてしまうことを表しているのではないか。

つまり、結ばれるとすれば、知ってること知らないことを話始める順番次第で、環境が構築され、二人の今後が決まるかもしれない。または、セントラルパークを赤ん坊をつれた仲の良い見知らぬ夫婦が連れ立って歩いているのを見ることで決まるかもしれない。ジャリーラの話が最初に出ることで決まるかもしれない。その場その時のちょっとしたものが、この二人には大きな影響を与えるだろう。

そして、お互いが相手の心の中へちょっと強引にでも一歩踏み出すことができるかどうかがキーだ。洋子がコンサートに行ったことを言えるかどうか、今の状況を言えるかどうか、お互いがいまだに愛していることを伝えられるか、なんのしがらみも気にすることなく、ただただ相手への愛を表わせられるか。その勇気または行動力が、彼らの今後の人生を再び大きく変えることができるだろう。

さいごに

いろいろ書いてきたが、蒔野聡史と小峰洋子の二人には、まだまだ理解できない点、物語の奥底にはわかっていない点が多数ある。しかし、平野さんも著書の冒頭で、

「彼らの生には色々と謎も多く、最後までどうしても理解できなかった点もある。私から見てさえ、二人はいかにも遠い存在なので、読者は、直接的な共感をあまり性急に求めすぎると、肩透かしを喰らうかもしれない」

『マチネの終わりに』序

と述べている。二人の状況や心情を理解しようと努めることはなかなか困難なことである。人を理解することはそもそも難しいことだから、当たり前といえば当たり前かもしれないけれど。でも、正解が存在しないことに自分なりの正解を見つけ出そうとする作業は、想像力の勝負であり、ロジックとクリエイティビティが創り上げるものだ。それは楽しい作業には変わりない。そして自分が考え創り上げた妄想をいろんな人とシェアして、見解を交換し合いたいとも思う。

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